• 幕末から維新

  • 徳川家康によって幕府が江戸に開かれると、日本の中心は江戸に移されます。静かな江戸時代を経て、京都が再び歴史の表舞台に出てくるのは、幕末になります。開国と攘夷、尊王と佐幕、公武合体などさまざまな思想を持つ各派が京都に集結しだします。京都の町は不穏な空気に包まれます。1862年(文久2年)、会津藩主松平容保が京都守護職となり、翌年、江戸で結成された浪士組が京都守護職を守るという名目で京都に入ります。この浪士組に参加したのが、後の新撰組となる近藤勇、土方歳三、芹澤鴨らでした。彼らは尊王攘夷派の志士らを探索しては、切り捨てていきました。彼らは京の壬生にある壬生寺を拠点としていました。

    公武合体派が優勢となった8.18の政変後、尊王攘夷派は巻き返しを図ります。孝明天皇の拉致と松平容保の暗殺、御所への放火といった、彼らのクーデター計画を事前に察知した新撰組は、1864年(元治元年)6月5日、三条小橋の旅籠、池田屋を襲撃します。この池田屋騒動をきっかけに新撰組の名は京都に轟きます。薩摩藩と会津藩が中心となった公武合体派が、長州藩などの尊王攘夷派を京都から追放した8.18の政変の後、三条実美ら7人の尊王攘夷派の公卿は失脚し、京都の町を追われます。長州藩は藩主父子の復権を求めて、兵を京にさし向け、禁門周辺で御所を守る薩摩藩と会津藩と激しい攻防を繰り返し、京都の町は火の海となります。

    一方、将軍後見職の一橋慶喜が朝廷で力をもちはじめ、次第に薩摩藩の島津久光と対立することになります。攘夷の謀反を知る薩摩藩は倒幕に傾き、かつて敵対した長州藩に接近し、1866年(慶応2年)1月、元土佐藩士の坂本竜馬が薩長同盟の仲介役を果たします。以後、薩摩藩と長州藩は、倒幕運動の中心となります。しかし、坂本竜馬は思い描いた新しい時代を見ることなく、1867年(慶応3年)11月15日、河原町通の近江屋で同志の中岡慎太郎とともに暗殺されます。

    1867年(慶応3年)、第15代将軍についた徳川慶喜(一橋慶喜)は、大政奉還を願い出て、ここに朝廷が再び権力を握ることになります。同時に、薩摩藩と長州藩に、倒幕の指令が秘密裏に出されます。同年12月9日、王政復古の大号令が出され、慶喜は大阪に出されます。しかし強硬派が多い新政府は、倒幕派の打倒をやめません。また幕府軍も崩壊した幕府立て直しを訴えます。この新政府軍の「官軍」と幕府軍の「朝敵」がそれぞれ自分たちの正当性を訴え、京を目指し進軍します。二つの軍隊は京都の鳥羽・伏見で激突し、鳥羽・伏見の決戦により、火に包まれます。この京都から発した争いは戊辰戦争となり、その後、1年5か月に及びました。

京都の歴史に関する質問

  • 京都の歴史ある観光スポット☆
  • 2007-11-28 13:13:00
  • 京都についての紹介レポートを書くことになりました。自分は生まれてこの方京都に言ったことがないし、生の意見が聞きたいので教えてください。京都の歴史ある観光スポットや、歴史あるイベントについて調べてみようと思っています。ぜひ
  • 京都寺町通の歴史について。
  • 2008-06-18 15:16:00
  • 文字通り、京都寺町通の歴史について調べていますが、中々資料が集まらず困っています。本やHPなどの資料などをご存知の方、お教えください。