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豊臣秀吉による京の再生
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明智光秀を討ちとったのが、豊臣秀吉でした。秀吉は、京都の街を近代都市へと大きく変容させます。まず、平安京の大内裏跡に聚楽第を建設して、豊臣政権の京都における政庁とします。聚楽第は黄金色に輝く、秀吉好みの豪華絢爛な意匠がそこここに施されていました。そのために全国から人と物資が集められ、一年あまりという短期間で建設されます。やがて、甥の秀次に関白職を譲り、聚楽第も同時に譲ります。しかし、秀吉に実子が生まれ、謀反の疑いをかけられた秀次は自害。聚楽第も跡形もなく破壊されました。たった九年しか持たない黄金の館でした。
豊臣秀吉は聚楽第の周囲には、武家町を作ります。次いで、都市の機能を重視し、公家、寺院、庶民の家を強制的に移動させます。これは「京中屋敷替え」といいます。平安京以来の碁盤の目の地割が効率よく利用されていないことから、南北に道路を通して短冊形の地割を新しく制定します。これにより道路に面した町並みが増え、経済の発展や人口の増加を図りました。庶民の多くはこの短冊形の地割の土地に移り住み、ここに身分によって居住地を分ける、城下町スタイルの町づくりが初めて生まれます。時代劇などで見かける家々は、この時に誕生したスタイルです。
京中屋敷替えで、洛中の多くの寺は鴨川の西と船岡山の南に移転させられます。これらの寺院は御土居に沿った北と西の地域に集まるように設計され、聚楽第を守る防衛線となります。御土居とは、濠と土塁を組み合わせた城壁で、総延長22kmにおよび、市街地をグルリと囲みました。その大土木工事もたった4か月程度で完成し、秀吉の権力の絶大さを感じさせます。現在もこの御土居の跡は、北野天満宮や御土居史跡公園で見られます。さらには、城郭都市の第二の防御線の役割も担っていました。このエリアは現在でも寺町、寺の内と呼ばれています。また寺院を周囲に移転させることにより、京の中心地から寺がなくなり、経済活動が活発化しました。
洛中と洛外を隔てる御土居には、出入り口が作られ、これが有名な京の七口です。諸国から京都へ入る道路と、御土居とが交差する場所に、関が設けられ、人や物資の出入りを見張り、外敵の侵入に備えました。以前から京に入る道はいくつかありましたが、御土居が作られてから、御土居の口が京の出入り口になりました。現在も鞍馬口、大原口などの地名が残っています。京の七口とは、長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口、丹波口がいわれますが、時代や資料によって場所や数、名称に異説があります。
京都の歴史に関する質問
- 京都の歴史ある観光スポット☆
- 2007-11-28 13:13:00
- 京都についての紹介レポートを書くことになりました。自分は生まれてこの方京都に言ったことがないし、生の意見が聞きたいので教えてください。京都の歴史ある観光スポットや、歴史あるイベントについて調べてみようと思っています。ぜひ
- 京都の寺社の歴史について。古い建造物で国宝や世界遺産に指定され
- 2008-02-04 13:14:00
- 京都の寺社の歴史についての質問です。京都市において、江戸時代以前に建てられた寺院or神社で国宝や世界遺産の指定を受けていない建造物ってありますか?清水寺とか歴史的に古いものは何らかの指定(世界遺産・国宝)を受けていると思う
- 京都寺町通の歴史について。
- 2008-06-18 15:16:00
- 文字通り、京都寺町通の歴史について調べていますが、中々資料が集まらず困っています。本やHPなどの資料などをご存知の方、お教えください。